『みんなCM音楽を歌っていたー大森昭夫ともうひとつのJ-POP』田家秀樹

e0171821_09504209.jpgこの本は、今年の「恒例の会」で音楽プロダクションの渡部ちゃんが持っていたのを借りたもの。僕がCMギョーカイで過ごした日々のことも含めて懐かしい想いで読みました。

日本でCM音楽が生まれたのは、戦後に民放ラジオ曲が誕生した1951年のこと。三木鶏郎作曲の小西六写真工業(現コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」というCMソングです。

この三木鶏郎さんというのは実に才気溢れる人で、GHQの体制下にNHK「日曜娯楽版」というラジオ番組で「冗談音楽」というジャンルを確立し、戦後の放送文化や音楽を背負う人材を育てた人でもあります。この番組は人気を集めたものの世相風刺、政治批判が過ぎてNHK会長から中止命令が出て無くなってしまったようですが…。
いずみたく、野坂昭如、五木寛之、永六輔など錚々たる人材が育っていきました。

さて、表題にある大森昭男さんはCM音楽プロダクション・ONアソシエイツ音楽出版の社長として僕が仕事を始めた頃からすでに有名な人。
いつか、この人と仕事をしたいと憧れていた人です。
この本は、CM音楽の流れを辿りつつ、大森さんがJ-POPにどれだけ影響を与え、貢献したかを描いて行ったもの。内容は、AMAZONのこちらでご覧ください。
残念ながら、今年の3月に逝去されました。

僕がCM制作をスタートした頃には、CM音楽は三木鶏郎門下を卒業した人達がそれぞれ自分の会社を作っていました。ペーペーの僕には発注権などはなく、上司のディレクターたちの人脈でCM音楽を発注していました。
まぁ、経営者として指揮を執る偉い人達には可愛がってもらえたし、いろいろなことを教えてもらいましたが、現場で出会う同世代のディレクターやプロデューサーとの方に親近感を持つのは自然なこと。
彼らとは「いつか、自分たちで新しいこと、面白いことをやろうね」なんて話していました。

僕が大森さんの仕事に出会ったのは三菱電機のラジカセの仕事。
すでに録音が終わったテープをH堂のスタジオで聴かされた時です。
クレジットには「大滝詠一シュガーベイブ」とありました。
それまでのCM音楽では無かった新鮮なサウンドに驚いた想い出があります。

先輩によれば福生まで打ち合わせに行ったとのこと。
「変わったやつらだよ」というのが、先輩の言でした。
大滝詠一は三ツ矢サイダーの仕事で、業界内では少し名前が売れ始めていましたが…。
   
これもスポンサーから不評でボツになりそうなところを電通の担当者が「今、録り直してますから…」と頑張ってオンエアしたらジャンジャンと問い合わせの電話が得意先に入り、そのままオンエアになったとのこと。

とにかく、新しいタレントの発掘に関しては定評のある方でした。
レコードデビューしたばかりのマンハッタントランスファーに伊勢丹のCMソングを日本語で歌わせたりしてますからね。

大滝詠一、鈴木慶一、山下達郎、大貫妙子などはCMの仕事が無ければ「音楽を途中で諦めていた」というほど食えない時代に声をかけて、彼らの才能を引き出して世の中に認めさせて行った大恩人ですから…。ということは、J-POPと言われているものがまったく違う流れになっていたかもしれませんね。

「CM音楽」という消えてしまう素材をレコード化して残るものとする…という画期的なことも、こうした流れと無関係ではありません。現在の主流となっている有名曲をCMで使っちゃう…というとは正反対の「ヒット曲を生み出す」ということですから。

当時のことを想い出しながら読んでいくと、自分がとても幸せな時代に仕事をしてきたんだなぁ!という思いもあります。
「いつか、自分たちで…」という仲間達ともワクワクするような仕事も出来たしね。

そうそう、この本にはONが発足した1972年から本が書かれた2007年までのデータ(得意先名、作曲家、作詞家等)のデータが載っています。僕が発注権を持てるようになってから、大森さんと念願叶ってご一緒させていただいた仕事もちゃんとありました。

今はすでに無くなってしまったスタジオとか懐かしい固有名詞に溢れた本。
J-POPに興味がある方は、ぜひご一読を…。

[PR]
by dairoku126 | 2018-06-26 11:15 | | Comments(0)


<< 今日は、専門学校の体験会。 まさか、梅雨明けでは無いんだろうね? >>