ピーター・マックス

e0171821_1631295.jpgパット・メセニーの参加したゲーリー・バートンのリユニオン・カルテットのライブ盤が、今年の5月に発売になりました。
ゲーリー・バートンにしては、やけにポップなジャケットだと思っていたら、端の方に楕円の囲みがあって、その中にPeter Maxの名前が入っているではないですか!
あれ?まだ、仕事してたんだ!と驚きました。
ピーター・マックスといえばサイケデリック!というくらい僕等の年代にとっては、60年代後半から70年代初頭にかけて鮮烈な印象を与えたアーティストであり、教祖みたいな存在でしたから…。
ピーター・マックスと横尾忠則抜きには、サイケデリックを語ることは出来ないのです。
彼が関わってはいないけど、The Beatlesの「イエロー・サブマリン」とか「サージェント・ペッパー…」などは、彼の影響がモロに出ているものですし、レナウンの「イエイエ娘」だってそうですよね。
この時代感覚が映画「オースティン・パワーズ」などでフィーチャーされているので若い方々も「ああ、あれね!」と思い当たるかもしれませんが…。e0171821_17122142.jpg
ウィキペディアで見ていたら、時代の寵児に終わらずにちゃんと仕事を続けていたのですね。
94年のサッカーW杯のポスターも彼の作品なんだって…!
まぁ、日本人は感激して、崇拝して、すぐにポイッ!ですもんね。新しいものばかり追いかけているから…。
最近ではオバマ大統領のポートレートも描いてます。

<追記>
ウェンディの大親友だったドンちゃんが、昨日天に召されたとのこと。
ドンちゃんは、雄のラブラドール。14歳の誕生日を迎えることは出来なかったね。
いつも、ウェンディのじゃじゃ馬ぶりに、ちょっと引き気味になることも多かったのですが、ウェンディのことを嫌いもせずに近くを通るとウェンディに会いに寄ってくれました。
ウェンディが死んだ後も、道に匂いが残っていたらしく、我が家に寄ってくれたこともありました。ウェンディが、ドンちゃんの家に遊びに行ってドンちゃんの大事にしていたオモチャを壊しても、許してくれたドンちゃん。天国の門のところで、ウェンディの手荒な歓迎に、また引き気味になりながらも尻尾を振ってくれているのでしょうか? 合掌!
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# by dairoku126 | 2009-10-02 17:22 | 文化 | Comments(4)

19世紀末の華麗な技

e0171821_18235422.jpg世田谷美術館で、オルセー美術館所蔵のアール・ヌーヴォーコレクションが企画展として9月12日から11月末まで開催されている。
この時代のものは好きなので、行ってきました。
現在は美術館になっている、オルセー駅は1900年のパリ万博に合わせて完成したもの。今回、出展された展示物もパリ万博に出展されたものが多く、オルセー駅が美術館に改装された後も同時代の美術の殿堂として印象派の絵画にとどまらず、アール・ヌーヴォー時代の工芸品のコレクションを誇っています。
僕はオルセー美術館には行ったことがありますが、その時は印象派の絵画を見るので忙しく(なにしろ有名な作品が沢山あるので)、このようなコレクションがあるとは知りませんでした。

全体として4部構成になっており、「サロン」「ダイニングルーム」「書斎」「貴婦人の部屋」という風に展示が分かれています。
まぁ、細かいところはリンクを張ったホームページで見ていただくこととして、印象に残ったのはジャポニスムの影響の強さです。
印象派の絵画でもそうですが、パリの19世紀末から20世紀初頭にかけて起こった芸術運動の「起爆剤」は、ジャポニスムだったことが良く分かります。今回の展示品にも、その影響が色濃く感じ取れます。
また、当時のパリの職人たちの工芸技術の水準の高さ、精緻さです。
作者不詳といわれる作品でも、エミール・ガレ、ルネ・ラリック、エクトル・ギマールなどのビッグ・ネームにひけを取りません。それはナイフやフォークなどカトラリーに刻まれていたりするものも含めて、細工の細かさ、仕上げの見事さに現れています。
もっとも、日本の錺(かざり)職人が、あの当時のパリに居たら、さぞや引っ張りだこになったことでしょうね。

それと「貴婦人の部屋」でも分かるように、このアール・ヌーヴォーという運動は、女性無しには成り立たなかったことが分かります。女性的な感性なしには、このような優美で華麗、かつ繊細という芸術運動は尻すぼみになっていたことでしょう。
それを体現したのが、サラ・ベルナールですね。
ミュッシャのポスターで有名ですが、あれほど大きいものだとは思いませんでした。このポスターに秘められたエピソードは、人間の「運」というものの不思議さを感じさせてくれます。
というのも、大女優サラがポスターを印刷所に頼みに来た時にたまたまデザイナーが休みを取っていて、印刷工だったミュッシャが急遽かり出されてポスターのデザインを手がけ、一夜にして寵児となったという出来すぎたような話です。
以後サラの専属デザイナーとしてミュッシャの出世物語が始まります。
彼女が使っていた家具や、1859年に撮影された写真から1911年の映画まで、サラの映像も含めて楽しめる趣向になっていました。
また、ここでも髪飾りやブローチなどに、ジャポニスムの影響が感じられます。
日本人は、世界中の女性にキレイ、カワイイ!と思わせるものを作るのが昔から得意だったのでしょうか?

収蔵品展の「和のいろ・かたち―日本画と工芸作品を中心に」の方は、山田貢のきものが素晴らしかった。北大路魯山人の陶器もあります。
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# by dairoku126 | 2009-10-01 20:12 | 文化 | Comments(0)

アメリカ彦蔵

またまた、漂流者の話です。彼の名前はアメリカ彦蔵e0171821_16585159.jpg
13歳の時、炊見習いで初航海中に紀伊半島・大王岬沖で難破。
漂流中をアメリカの商船・オークランド号に発見され、サンフランシスコに上陸しました。
アメリカ政府は、全員を日本に帰還させるように命令が出て、香港でアメリカ海軍東インド艦隊長官・ペリー提督の船に同乗して日本に赴くはずであったが、ペリーはなかなか到着せず、その間に香港で出会った岩松という漂流民から「自分たちはイギリスのモリソン号という船で日本に向かったが、外国船打ち払い令により砲撃され、帰ることが叶わなかった」という話を聞き、2人の仲間と共に再びサンフランシスコに戻り、税関長サンダースに引き取られて一緒にニューヨークに赴いた時から、仲間とも別の運命を歩み始めるのです。
子供の居なかったサンダース夫婦に我が子同然に可愛がられ、サンダーズの故郷ボルチモアで教育を受ける機会に恵まれ、また政府に知己が多かったサンダースと共に時のアメリカ大統領フランクリン・ピアースに面会を果たします。
その後、信心深かったサンダース夫人の手引きで洗礼を受け、ジョセフ・ヒコという洗礼名をもらい、またクリスチャンとなった彦蔵が日本に帰るためにはと、アメリカに帰化して身の安全を図ります。こうして駐日公使ハリスの通訳として神奈川に赴任し、帰国を果たします。
領事館を辞して横浜に移り、貿易商を営みますが、攘夷運動の高まりに身の危険を感じて、再々度アメリカに渡ります。
そのアメリカでも南北戦争が始まっており、日本での領事館通訳官という政府の正式な役職に就いて日本に戻ります。その際に、リンカーン大統領とも面会しています。
幕末の動乱期に日本に戻った彦蔵は、しばらく領事館で勤務していますが、やがて退職。
横浜で貿易の仕事をしながら英字新聞を和訳した、日本で初めての新聞「海外新聞」を発行します。しかし、友人のアメリカ人からの、事業を引き継いで欲しいとの依頼により長崎に居を移します。長崎でグラバーの傘下に入った彦蔵は幕末を生き抜き、明治政府の要職を襲うことになる桂小五郎、伊藤俊介(博文)、五代友厚などと親交を深めます。
その後、日本でアメリカ人として余生を送り、明治30年に61歳で死去します。

まぁ、この本は彦蔵を中心に書かれていますが、筆者はそれ以外の漂流民についても綿密な調査で数十人に及ぶ漂流民のその後を追いかけています。それにしても、江戸時代の和船の構造というのは、外洋で一端事があるとお手上げ状態になってしまうのですね。舵と帆柱がなくなった「坊主船」という状態で、当てもなく漂流せざるを得ない。食料がどれだけ残っているかで、その後の運命は決まって来ます。文中に出てくる漂流者の中でも、米を600俵近く積んでいた船の漂流者は発見された時にも元気そのものです。

この時期にはアメリカの捕鯨船が、日本近海に鯨を追いかけて遊弋することが多くなり、漂流者を発見しては保護してアメリカまで連れ帰ることが多かったようです。
それと日本の漂流者というのは、助けられた恩義に報いるために、保護された船の中で甲斐甲斐しく働くので好意をもって迎えられていたようですね。また、働きながら西洋式の船の構造や、操船術をしっかりと身につけていくのです。ですから無事に帰国して、それぞれの出身地の藩に引き取られてからは、名字帯刀を許されて藩の操船方などの仕事を任され、外国から買い入れた西洋式の船を任されたりしています。一介の水夫の身分しかなかった男達がですよ!
一緒に漂流した11人の中で、読み書きができるものが5人も居た、という世界的に識字率(教育程度)の高かった日本の船乗りだったからかもしれませんが…。

この本は、いろいろな読み方が出来ると思います。幕末の動乱から明治まで時代を漂流した彦蔵、アメリカ人ジョセフ・ヒコと播磨生まれの彦蔵との葛藤を漂流する彦蔵、ピアース・ブキャナン・リンカーンと3代の大統領と面会した唯一人の日本人の数奇な話として読んでも面白いし、ペリーを始め幕末にかけて日本に関わる名前が次々に出てくるのも興味深いですしね。
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# by dairoku126 | 2009-10-01 18:19 | | Comments(5)

アン・バートン

e0171821_1724414.jpg没後20年とのことで、日本でダイレクト・カッティングされた2枚のレコードが2 in 1で初CD化されたのが、写真にある「He's Funny That Way」。
それも液晶パネルなどに使用するポリカーボネートをディスク基礎材料にし、反射板にはアルミニウムではなく特殊公金を採用したHQCD(HiQualityCD)という普通のCDプレイヤーで聴ける高音質CDで、との謳い文句にもカンタンに釣られて買ってしまいました。
彼女の全盛時代であった70年代には、(こちらも若かったから)彼女のストレートな歌い方には心惹かれなかったのですが、このトシになって聴いてみて、改めて自分がガキであったことを痛感させられました。
日本での人気は、もの凄いものだったので、ガキとして反発する部分もあったでしょうし…。

特に、今日のような雨の日に聴いちゃうと、「しみじみ」とした歌い方が響いてきますね。
奇をてらう訳でもなく、派手でもなく、ストレートに歌詞を語りかけてくる声と歌い方が…。
ヴォーカル学校の新入生だって、もっと「ジャズ歌手らしく」歌うだろうと思わせるような衒いのなさが、逆に新鮮です。
そういえば、あの時代の笠井紀美子さんとか後藤芳子さんなども、こんな歌い方でしたね。
影響を受けていたのでしょうか?

それとサイドメンが良いですね。彼女の歌い方に、凄く合っている。ヴォーカルはピアノではなくベースに乗って歌う、というジャズ・ヴォーカルの鉄則が良く分かります。
もともとは2枚のレコードだったので、それぞれにバックのミュージシャンが違いますが、1977年の録音の方では、ベースの稲葉国光さんとドラムスの小原哲次郎さんが好演しています。
1980年の方は、ピアノとベースだけでドラムレス。
選曲の方も、いわゆるスタンダードに加えて、カーペンターズの「雨の日と月曜日」、ママス&パパスのビッグ・ママキャスが歌っていた「ドリーム・ア・ドリーム・オブ・ミー」(エラも歌ってますが…)などが入っていて、気分がダレそうになるのを引き締めてくれています。

肝心のHQCDですが、凄いです!元々がダイレクト・カッティングされた高音質な音源だからかもしれませんが、すぐそこで歌っている感じというか、録音スタジオのモニター・ルームでプレイバックを聴いている感じの方が近いかもしれません。
「ああ、いい音だ!」というのが、ちょっと恥ずかしいくらい、分かりやすいものでした。
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# by dairoku126 | 2009-09-29 18:13 | 音楽 | Comments(0)

段菊

e0171821_8513128.jpgmatsu-honuさんの奥様と、ご友人のおかげで「この花の名前は?」と書いた花の名前が分かりました。「段菊」です。
ありがとうございました。おかげでスッキリしました。

見たまんまの名前ですが、実は菊ではなかったのです。
クマツヅラ科、カリオプテリス属の多年草で九州北西部に自生している日本原産のもの。
学名はカリオプテリス・インカナ。
同じクマツヅラ科の仲間には、バーベナやデュランタ、ムラサキシキブなど。デュランタは、前の家の時に玄関の横で大きく育ちましたし、ムラサキシキブは僕の母親が大好きで大切に育てていました。植物の好みというのは、やはり似てくるものなのかなぁ?

「この花の名前は?」と書いた時は、ピンクの花が咲いていましたが、新しく紫の花が咲き出しました。まぁ、紫の方が一般的なようですが…。

「ダンギク」という音を聞いて、歌舞伎のことを思い出しました。
歌舞伎で「ダンギク」といえば、明治の名優、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎のこと。
この二枚看板をしのぶ「団菊祭」という歌舞伎興行がありますが、なぜか演目の中に「源氏物語」が入ることが多いようです。江戸時代に河竹黙阿弥が菊のために書いた『白浪五人男』とか、『幡随院長兵衛』など他の演し物もやるようですが…。
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# by dairoku126 | 2009-09-28 09:29 | 季節 | Comments(2)