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ウェンディの闘い

10日ほど前、ウェンディの様子がおかしいので医者に連れて行ったところ脳梗塞との診断。
毎日通院しては点滴とステロイド投与を続けて来ました。もちろん、散歩は無理。
オシッコとウンチは家の庭に僕が抱えておろし、ハーネスで支えながらやっという状態。
食欲だけは衰えることなく、左側の顔面の神経が麻痺しているらしく、ボロボロとこぼしながらですが時間をかけて完食。医者に行くのにも、クルマに飛び乗ることも出来なくなってきたので、僕が抱えて乗るという毎日を続けて来ました。それでも、だいぶ状態が安定してきたので、点滴とステロイドは止め、クスリを家庭で投与して、様子を見ようということになりました。それが、先週の金曜日の朝、ついにダメかと思わせるほど水は飲めない、ご飯は残すという状態になったのです。
出社途中から有給休暇に切り替えて駆けつけて来た娘は、そんなウェンディを見て、もう涙ボロボロです。医者に連れて行ったところ、先生が「もう一度、試してみましょう」ということで点滴とステロイドを注射。
家に帰ってきた頃から、劇的にクスリが効き始め、心配して駆けつけてくれたKohalaママの見送りに玄関まで歩いて行くほど。
夜には息子も仕事を切り上げて戻って来て、久しぶりに家族全員が揃いました。
翌朝、心配して早起きをしたのですが、気がつく様子もなく、熟睡しています。
安心してお湯を沸かし、紅茶を煎れていると、ムックリと起き上がる気配が…。
見ていると、そのままデッキの方に歩いて行き、出たがっている様子。
ガラス戸を開けてやると、自分でトコトコと階段を下りて庭の芝生に下りてオシッコをして、再び階段を上がってきました。おいおい、そんなことまで出来るようになったのかい!
それから薄皮を剥ぐように、表情にも生気が戻り始めました。
歩き方は、いまだに覚束無く、ヨタヨタしてるところもありますが、食事を食べるスピードも速くなり、回復の兆しが見えてきました。
すぐに疲れるのは仕方がないのですが、オモチャでも遊ぶようになり、ホッとしています。
まだまだ、油断は出来ませんが、これからもウェンディの病気との闘いを見守って行く勇気が湧いてきました。14歳を過ぎているのですから、人間にすれば100歳くらい。
それでも1日でも長く、人生を楽しんで欲しいと願っています。
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by dairoku126 | 2009-05-31 18:16 | 家族 | Comments(3)

悲しい話

今日は一転、悲しいニュースです。また、昔からの波乗りの仲間が、逝ってしまいました。
山本智博君、56歳でした。
彼は日本のプロ・サーフィン界の黎明期に活躍した元プロ・サーファーでした。湘南学園の後輩で、鵠沼サーフクラブのメンバーでもありました。人なつっこい性格で、「トモスロ、トモスロ」と誰からも可愛がられ、また後輩達の面倒もよく見るナイス・ガイでもありました。
去年の鵠沼サーフクラブの忘年会には珍しく顔を出さなかったので、暮れに鵠沼の街で会ったときに「どうしたんだよ?」と話しかけたら、ちょっと体調が悪くてと言ってました。
その彼が「胃の調子がおかしい」と病院に行ったときには、すでに悪性の末期ガンで、いきなり余命3ヶ月と宣告されたとのこと。でも、それ以後はうろたえることなく、稲村の波に挑むように「死」と向かい合って闘病生活を続けていました。
昨日の通夜には、彼の人柄を反映して大勢の昔の仲間達が、クラブや地域を超えて集まりました。鵠沼サーフクラブは、発足以来45年間いまだに続いているのでクラブのメンバーとは毎年忘年会などで会っていましたが、他のクラブで波乗りから遠ざかってしまった昔の仲間とは、こんな機会でもないと顔を合わせる機会がありません。
中には20年ぶり、30年ぶりなどという顔も集まっていました。
これも彼のキャラクターのなせる技だったのでしょう。それにしても若すぎる!
合掌!
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by dairoku126 | 2009-05-31 17:31 | 友人 | Comments(2)

KONA WINDS

嬉しいニュースが届きました。
約25年前の仕事でCMソングとして制作した曲が復活するのです。
曲のタイトルは”KONA WINDS”。
40代後半のサーファーなら覚えていると思いますが、K社から発売したトロピカル・カクテル風味の飲料”KONA WINDS”のCMで使用した曲です。
”KONA WINDS”で始まるサビの部分を使用するのですが、15秒の間に”KONA WINDS”という言葉(=商品名)が3回は登場するという仕掛けになっていて得意先も大喜びでした。
この仕掛けをいきなりハワイのアーティストに理解させてということはリスクがあったので、曲自体はGODAIGOのタケカワ・ユキヒデさんに作ってもらいました。
”KONA WINDS”の後にはハワイ語でムニャムニャと意味は分からなくて良いから入れよう!ということで、デモテープではタケカワ・ユキヒデさんがハナモゲラ語のような言葉を入れて作ってくれました。で、ハワイで撮影準備と平行して録音がスタートしたのですが、ヴォーカルの候補としてKALAPANAのマッキー・フェリーとセシリオ&カポーンのヘンリー・カポノをピックアップ。
作詞はヘンリーが上手いというのでヘンリーに任せました。
レコーディングは杏里やユーミンのハワイ録音でも有名なホノルルのSTUDIO HAWAIIで行いましたが、なぜか仕事がスタートするのが毎日夜の11時から。Why?
理由はカンタン、ミュージシャンはすべてホテルでのショーを終えてから来るから…でした。
その録音を現地でコーディネートしてくれたのが、Nick加藤氏。これが彼との長いつきあいのスタートでした。しかも帰ってから分かったのですが、Nickがカリフォルニアに留学中のルームメイトが僕の鵠沼での友人でした。  It's a small world!
CMのオンエアと共に日本ではソニーミュージックからシングル発売、その数年後ハワイでもヘンリーがLPを作るときに1曲足りなくてKONA WINDSを入れたところ、しばらくハワイでもヒットしたというおまけ付きでした。そんな思い出の曲がusmusicから再び発売されます。
6月24日、「PACIFIC PARADISE」 VOL.1と2です。
Kamasami KongのDJ付きです。録音風景など当時のエピソードは、いずれまた!
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by dairoku126 | 2009-05-30 11:51 | 音楽 | Comments(0)

波は…

どこに行ったのでしょう?
天気予報によれば、湘南地区は3mのち2mと出ていたので、
まぁ実際の波としては半分の1.5m(つまり肩くらい)はあると思ったのに。
しかも、セットの間隔も結構長く、パドルアウトするにはラクでしたけど…。
昨夜の強いオフショアで、うねりが消されてセットで胸、それ以外は腰でした。
まぁ、それでも何本か逃げられる波があったのを、感謝しないと…。
人も、鵠沼にしては少なかったしね。
*写真は、海が好きドットコムからお借りしました。
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by dairoku126 | 2009-05-29 15:58 | 波乗り | Comments(0)

今日は、海軍記念日。

e0171821_1527764.jpg僕はもちろん知らないけど、今日は「海軍記念日」だったとのこと。104年前の今日、日本海海戦でバルチック艦隊相手に、東郷平八郎指揮下の連合艦隊が対馬沖で歴史的な大勝利を納めた日なのです。
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」との有名な電文を参謀・秋山真之が大本営に打電させ、旗艦「三笠」にZ旗を掲げて戦いに入っていった。艦隊が使用していた信号簿にはZ旗は「「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていたとのこと。
ここら辺の詳しいことは、司馬遼太郎「坂の上の雲」とか吉村昭「海の史劇」あるいはWikipediaにもありますので興味のある方は読んでください。
NHKで「坂の上の雲」を今年の11月から3年にわたって放送するらしいけど、CGがなければできないドラマですよね。CGが未発達の頃には、絶対に再現不可能と言われて企画倒れに何回もなってきたらしいから。
日本の勝因は、日英同盟、戦闘員の練度、名参謀・秋山真之の取り入れた村上水軍の戦法、そして日本の戦時債を引き受けてくれたクーン・ローブ財閥のおかげと言われています。
クーン・ローブ財閥は、その後ロックフェラーの財務を担当したりしますが、1977年に去年破綻したリーマン・ブラザースに統合されてしまいます。
東郷提督は世界中の海軍関係者から「アドミラル・トーゴー」として高い評価を受け、国内においても陸軍の乃木希典と並んで「軍神」として祀られていくのです。
ところが、「英雄」として祀られたその人が、その後の歴史の中で結果として「老害」以外の何者でも無くなっていくのですね。海軍の改革に反対し、5・15事件の海軍将校の精神的な支えになり、アンチ英米派の巨頭として昭和の海軍の人事に長老として口出しして薩摩閥を要職につけ、日本を破滅に導く道筋を推し進める日独伊三国同盟派の精神的支柱として彼らの御輿に乗ってしまうのです。誰も諫めることができない「英雄」として…。
長州閥で陸軍の最高責任者として自分の無能さを知りつつ「英雄」になった乃木希典は、自分の無能さを分かっていたのか明治天皇の崩御に際して殉死してしまいますが、幕末の薩英戦争から薩摩の海軍士官として嘱望されてきた東郷平八郎はイギリス留学を経て、日露戦争時には最高の指揮官として能力を発揮しますが、その成功体験に後々まで縛られてしまったのでしょうか?ビジネスの世界でも、よくある話ですが…
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by dairoku126 | 2009-05-27 15:28 | 季節 | Comments(3)

川鵜

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先週、カヌーに行った時にSOCCのクラブハウスの前の岩に川鵜がいました。
ここは片瀬川(境川)の河口になるので、水も淡水と海水が混じり合っています。
エラそーに羽を広げているのですが、これはエラぶっているのではなく、羽を乾かしているらしい。水の中に長い時間いるのだから、羽が濡れるのは当然なんですが、それを乾かすというのは知りませんでした。
引地川でも時々見かけるので、ここら辺に棲み着いているのかしら?
川に潜って、魚を捕っている姿を見かけます。最初は、鵜だということに気がつかなかったのですが、突然潜ったので「あれ?鵜がここら辺にもいるんだ」と気づかされた次第。
長いこと鵠沼に住んでますが、知らないこと、気がつかなかったこと、ゆったりとした気分で周りを見回すといっぱいあるものですね。
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by dairoku126 | 2009-05-26 10:45 | 鵠沼 | Comments(0)

コウホネ

e0171821_12354925.jpgコウホネが花を咲かせました。これもスイレン科の植物で、漢字では「河骨」と書きます。根茎が白色で肥大し、白骨に見えることからとのこと。我が家では、まず睡蓮が咲き、続いてヒツジグサが咲き、それからコウホネという順に水草が目を楽しませてくれます。
妻の実家にあった古い陶器の火鉢も、我が家では使い道がないので水を張って水槽に変身しました。

ここ2-3日の天気は季節の変わり目を暗示するように、寒くなったり、暑くなったり。太平洋上の水温は、温かいところが北上してきているので、そろそろロンスプで海に入れるかな?トランクスにタッパーという組み合わせもチラホラと見え始めているし、ね。フルスーツは、そろそろお役ゴメンの季節になってきました。
それにしても、波がない!
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by dairoku126 | 2009-05-25 12:38 | 季節 | Comments(0)

Surf Music

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imsurfer.comの梅澤君のブログを読んでいたら、昔のサーファーがJazzを聴いていた…との記事がありました。確かに、日本でもSurfin' Sharksが誕生したての頃、シャークスのお兄さん方は海にポータブルのプレイヤーとレコードを持ってきて、Jazzを聴いてました。
僕が中学から高校に変わろうという夏の辺りの日々です。
当然、僕も大いに影響を受けてJazzの虜になっていったのでした。
とにかく、カッコ良い音楽でしたからね。アート・ブレーキーのジャズ・メッセンジャーズ、コルトレーンのいたマイルス・ディヴィス・クインテット、ギターだったらケニー・バレル、バーニー・ケッセル、ウェス・モンゴメリーなどなど。

The Beach Boysの「Surfin' U.S.A」が全米チャートに入ったのは1963年だから、ちょうどその頃です。僕が新宿の厚生年金ホールで彼らの最初の日本ツアーを聴きに行ったのは、確か65年のことです。The Ventures、The safarisと一緒に来日していました。
だから、一応サーフ・ミュージックというジャンルの音楽は日本でも認知されてきていたのですが、海でお兄さん方が聴いていたのはJazzでした。

1966年にブルース・ブラウンがサーフ・ムービーのマイルストーンとなる「Endless Summer」を製作し、その時にThe Sandalsというグループを使うまでブルース・ブラウンの映画のサウンド・トラックはパシフィック・ジャズ系のアーティストに占められていたようです。
当時は、Jazzでもイースト・コースト系とウェスト・コースト系がハッキリしていました。
もちろん中間で、どちらのアーティストともやるよ!という人もいましたが…。
イースト系はマイルス、コルトレーン、ビル・エヴァンスなどが前衛的な新しいJazzの確立に向けて邁進し、ウェスト系ではシェリー・マンやラロ・シフリン、バド・シャンク、スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーなどパシフィック・レーベルを中心に心地よいJazzを売りにしていた。なによりもハリウッドを擁しているので映画のサウンド・トラックやTVドラマの主題歌などバイト感覚で稼げる仕事が多かったので、Jazzをやっていても十分に食えたことがキモチの余裕を呼んでいたのだろう。有名なところではラロ・シフリンは「Mission Impossible」(当時の題名は「スパイ大作戦」いまだに映画でも使われている、あの曲です)やブルース・リーの「燃えよドラゴン」のテーマを書いているし、クインシー・ジョーンズもカウント・べーシー・オーケストラの下手なトランペット奏者から作曲家・編曲家として「弁護士ペリー・メイスン」(子供の頃NHKで見ました)、「鬼警部アイアンサイド」(懐かしい!!!)など後々の成功への道を歩み始めていました。

写真にある僕が持っているレコードは、1枚がラロ・シフリン、1枚がバド・シャンク。
これは村上春樹さんに波乗りを教えていたときに、お礼でもらったもの。
CDはアート・ペッパー(ジャケットの絵がいいでしょ)。

そういえば、10年近く前にロングボード中心のサーフムービーでスタン・ゲッツなどスタンダード・ジャズをBGMにしたのがあったよね。題名は忘れましたが、確かジョエルがデビューしてきた頃のヤツです。
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by dairoku126 | 2009-05-23 17:08 | 音楽 | Comments(2)

背番号7

この前、プロ野球交流戦を見ていたら、二岡が古巣の巨人を相手に大暴れしていた。
入団以来、好きな選手だったのでトレード話にはビックリしたけど、モナの1件があったので仕方がなかったんだろうな。定位置のショートには、坂本が出てきちゃったしね。
その時に思ったんだけど、いまジャイアンツで背番号7は誰なんだろう?と。
調べてみたら、誰も今シーズンはつけていないことが分かった。
一桁の背番号というのは、プロ野球選手にとっては勲章のようなもので、当然レギュラーを期待されてないとつけさせてもらえない。ましてジャイアンツのように歴史のあるチームだと、過去の栄光が染み込んだ番号になるので大変なことなのだ。
僕が『背番号7』が気になるのは、野球少年だった小学生の時に父親に買ってもらったユニフォームに7番をつけていたから。
その当時の『背番号7』は、ウォーリー与那嶺がつけていた。
もちろん、ジャイアンツの話だけど…。
与那嶺はハワイ出身の日系二世選手で、元プロフットボール選手上がりのセンスで、日本の野球にセーフティ・バントとか、猛烈なスライディングとか、要するにアメリカ野球のスピードやエッセンスを最初に持ち込んだスマートな外野手だった。縁なしのメガネをかけて夏になるとアンダーシャツなしでユニフォームを着ていたり、とにかく垢抜けたスタイリストだった。もちろん実績も凄くて、生涯打率では川上を抜いていたはず(?)。
僕が野球を見始めた1958年には不動のトップバッターとして、長嶋が入団した年に打点王になるのに大いに力を貸していた。だって、とにかく出塁して、盗塁して、長嶋がヒットや外野フライさえ打てば打点が稼げるような舞台を整えていたんだから…。
与那嶺が中日にトレードされてから、慶応大学から鳴り物入りで入った大橋とか大洋から移籍してきた桑田とかがつけていたけど、それほどの印象はない。
僕にとって次の7番は柴田ですね。
入団当時は12番をつけていたけれど、不動のトップバッターの地位とともに背番号7は、柴田のものになった。柴田・高田(背番号8)で長嶋・王の前を固めていた時期がV9の時代です。
柴田の後は、助っ人レジ−・スミスが2年ほどつけて、しばらく欠番。
その後が、現在の打撃コーチ吉村がつけて引退。その直後、二岡は入団時から7番をつけていたのです。いかに期待されていたか分かるでしょう。
こうしてみると、記憶に残る背番号というのは、10年近く背負えるだけの実績とエピソード性がないといけないし、また系譜みたいなものが出来上がるんですね。7番は外野手とか。
その意味でも、二岡は内野手として7番を背負い続けた新しい系譜の創始者として歴史に残るはずだったんだけど…。モナがね。
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by dairoku126 | 2009-05-22 22:37 | スポーツ | Comments(2)

チャリンコで…

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自転車でサーフボードを運べるようになってから、さらに波乗り人口が増えたように思う。
結構、遠くから来るしね。僕も七里くらいまでなら、波が良さそうな時なら行くし…。
ところが、このチャリンコ・キャリアにボードをつけてというのは、湘南のローカル的な風習らしい節がある。僕自身の経験でも千葉に波乗りに行って、この姿を見かけたことはないし、伊豆でも、奄美でも、種子島でも、福島でも、茨城でも見かけなかった。
高校生なんてクルマの運転ができないんだから、波乗りに行くのにボードをどうやって運んでいるんだろう?と思うのだが、不思議と見かけない。

昔、僕たちが波乗りを始めた1964年の1年後には、今のウィンドのキャリアのような車輪が2つ付いたボードキャリアがあった。自転車につけて後ろにボードを乗せたキャリアを引っ張るというリアカーの変形のようなものだった。川井幹夫君なんてホンダのスーパーカブの後ろにつけて、鴨川から金谷まで山道を抜け、フェリーに乗って稲村まで来るという離れ業を敢行したのも、このタイプのキャリアだった。

とにかく、鵠沼にしろ、七里にせよ、キャリアのついた自転車だらけなんだけど、見ていて凄く気になることがある。それは、ボードの付け方なんですよね。
ひどい奴になると、スケッグを外側に向けて平気な顔して乗ってる。それって、アブナイでしょ。むき出しのナイフを持ったまま、人混みの中を歩いているようなもんじゃない。
あんな長いもの、ただでさえ迷惑なものだし、サーフィンが地域経済に少しは貢献していたりするから、黙認されているようなものでしょ。現に何年か前に鎌倉警察署は、禁止にしようとしたこともあったし。
だから、「私、サーフィンやってます。エコです。ロハスです」なんて、大きな顔して傍若無人に振る舞うのはやめにしましょう。
僕が考える正しい付け方は、写真にあるようにボードのテール部分を前にして、なおかつスケッグは内側に向けるという付け方です。これなら、スケッグが常に自分の視界に入っているので、自分でコントロールできるでしょう。
そもそも、スケッグの裏側は、凄く鋭利にできています。でないとスケッグの水抜けが悪くなって気泡ができ、スピードをロスしてしまいます。だから、ちゃんとしたメーカーのボードほど、スケッグの後ろ側をシャープにしてあるのです。
この部分がボードを自転車につけたときに、ノーズを前の方に持ってくると自分が見えないところに行ってしまいます。また、キャリアに付けた時の高さが、ちょうどヨチヨチ歩きの子供の目の高さくらいになってしまうのです。134号線の信号待ちをしているときなどに、キモチはどうしても波の方に向かっていたりするので、後ろから誰か来る気配なんて絶対と言って良いほど分からないでしょう。その時に子供が来て、転びかけたりしたら一番危険なことになるでしょ。子供以外にも、海には年老いた人が散歩に来ていたりすることも多いのです。僕が見たのは、女性のサーファーが友達に会って突然止まったため、後ろから歩いていた老婦人が外に出ていたスケッグの裏側に足をぶつけ、血が出るほどの怪我をされたことがありました。
だから、凶器を運んでいるという意識を常に持っていないと…。
凶器だからこそ、自分の目が届くところに置いておかないと。

前にヨガを教えている女性が波乗りを始めて、さらに地球の呼吸を感じること、自然や生命の優しさを大切にすることを教わりました…なんて発言を雑誌でしていましたが、そこに出ていたウェットスーツ姿で自転車にサーフボードを付けた見目麗しき女性の写真では、スケッグがむき出しのナイフのように、外向きに道にはみ出すように付いてました。
おいおい!みっともないぜ!
手前勝手に「優しさ」を言うだけでなく、他人にも優しくしてね。

僕もうるさいジジイと思われようが、なるべくボードの付け方については海で言うようにしてますが、ビギナーとか下手な奴ほど、そこら辺に無頓着な輩が多いようです。
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by dairoku126 | 2009-05-22 13:31 | 波乗り | Comments(4)