葉室麟の随筆集「柚子は九年で」は、初めての随筆集ということで作品を読むのとはまた違う味わいのあるものでした。
しかもその中で、懐かしい言葉に出会いました。
それは、『「サヨナラ」ダケガ人生ダ』というもの。
僕はこの言葉はてっきり
寺山修司が書いたものだとばかり思い込んでいました。
それが、なんと井伏鱒二が唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」に付した訳文の一節だったことが判明、井伏鱒二の言語感覚の新しさにも再度ビックリした次第です。
勧君金屈巵 君ニ勧ム金屈巵(キンクツシ・金の盃)
満酌不須辞 満酌辞スルヲ須(モチ)イズ
花発多風雨 花発(ヒラ)ケバ風雨オオシ
人生別離足 人生別離足(オオ)シ
井伏鱒二の名訳はこちら。
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミ注ガシテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
漢詩というと堅苦しい感じもありますが、こういう風に訳してくれるとグッと身近な感じになりますね。寺山修司は、この井伏鱒二の名訳を受けて『幸福が遠すぎたら』という曲を書いている。
僕が勘違いしたのは、ここら辺のことが曖昧なまま『「サヨナラ」ダケガ人生ダ』という言葉に惹かれてしまっていたんでしょうね。歌っていたのは小室等率いる「
六文銭」。
まさに70年安保の時代そのものですね。
さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐりあう日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛はなんだろう
さよならだけが人生ならば 建てたわが家は何だろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません
さらには、カルメン・マキに『だいせんじがけだらなよさ』という詩も贈っている。
アナグラムのように言葉を引っ繰り返していたんですね。
寺山修司が井伏の言葉にそれだけ惹かれていたのでしょうか?
その曲もYouTubeにありました。
随筆集のことから思わぬ脱線をしてしまいましたが、なんか懐かしかったのでご容赦を…。