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『長宗我部』

『長宗我部』_e0171821_14204374.jpg面白い本を読んだので…。

戦国時代に土佐から身を起こし、四国全土を切り取ったところで全国統一に向かっていた豊臣秀吉のせいで、再び土佐一国に押し込められ、関ヶ原では徳川家康側に味方するつもりが心ならずも石田三成側で闘う羽目になり、敗北。
生命は長らえたものの、土佐を召し上げられ、浪々の身をかこっていたのを大坂の陣でも豊臣方から請われて大阪に入城。
最後は六条河原で斬首となった長宗我部元親・盛親父子のことは関ヶ原や大坂の陣に必ず出て来るので漠然と知ってはいたのですが、その家系が秦の始皇帝に始まり、70代・2000年にも及ぶ歴史を持つこと、ましてや現在も連綿と続いているとは知りませんでした。

著者の長宗我部友親氏は共同通信の経済部長などを歴任したジャーナリストでもあります。盛親が斬首されたため途絶えた本流を、元親の末弟が分流初代として引き継ぎ、山内家が治める土佐の地で「長宗我部」の姓を名乗ることも許されず、山内家の御用人(下士)として幕末まで勤め上げ、一族の歴史を保存して来た分流17代目の当主。『長宗我部』_e0171821_14414594.jpg

そもそも、秦の始皇帝の末裔が日本に渡来して一大勢力を築き上げ、聖徳太子を助けて働いた秦河勝をはじめとする秦一族に関する本は古代史のコーナーに結構並んでいます。僕も最近『謎の渡来人 秦氏』という新書を読んだばかり。でも、そこには長宗我部氏のことなど一行も書かれていませんでした。
とはいえ、日本の古代史を語る時に渡来人として勢力を誇った秦氏や海部氏のことを欠かすことは出来ず、この本でも「最高の技術者集団」織物、土木、酒造、流通など殖産興業にチカラを発揮した!と書いてありました。特に京都周辺には広隆寺、太秦など秦一族の痕跡が未だに残っています。

聖徳太子の側近として物部守屋を討ち取った秦河勝の功績に対して信濃国を賜り、一族が信濃に移り住んだのですが平安末期に秦能俊(よしとし)が保元の乱で崇徳上皇側につき敗北を喫し、都から遠い土佐の地に移り住んだことから長宗我部氏の歴史が始まります。
日本に渡来してから2000年に及ぶ一族の壮大なクロニクルとして読むと面白い。
中興の祖・元親のところも面白いのですが、山内家の下士として生き抜いて行く部分もサラリーマン生活を彷彿とさせて興味深いと同時に、徳川260年の時代を「長宗我部」の誇りを秘めながらも、毫も感じさせずに面従腹背の姿勢を貫き通し、明治維新後に再び「長宗我部」の家名を復活させて行くまでの苦労を思うと涙が出そうなほどです。

まぁ、これ以降のことは興味がある方は本を読んでいただくとして、文庫版の最後に当主の長宗我部友親氏と「武士の家計簿」で有名になった歴史学者・磯田道史氏の対談が付いてます。この対談が実に面白い内容に満ちています。
その中で、ご当主が「秦氏の顔の特長は、面長です。あまり丸い顔の人はいません」と言ってるのですが、確かに僕が知っている秦という姓の友達は、みんな面長でした。
by dairoku126 | 2012-11-17 15:17 | | Comments(0)


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