邪馬台国は沖縄だった!ー卑弥呼と海底遺跡の謎を解くー

e0171821_17583232.jpgこの本は、本当に面白かった。
地震予知などで知られる琉球大学・木村政昭名誉教授が専門の海洋地質学や地震学と半ば関連するように邪馬台国について書かれた本です。
邪馬台国論争は、江戸時代の新井白石、本居宣長に始まり、明治時代になって「畿内説」(内藤湖南に端を発する京都大学系)と「九州説」(白鳥庫吉を祖とする東京大学系)とが譲らず、21世紀に至るまで決着を見ていません。
そこに沖縄の海底遺跡調査に携わって来た木村教授が従来とは、まったく違う沖縄ではないか?と疑問を投げかけたのが内容です。

そもそも「邪馬台国論争」なるものが起きたのは、中国の正史「三国志」の中の魏志倭人伝に書かれたものであり、正式には「東夷伝」の「倭人の条」の略称であり、邪馬台国を中心とした倭人の国々について書かれたもの。
その中に邪馬台国への道筋が書かれているのですが、「畿内説」「九州説」とも北部九州までは書かれたとおり、しかしそれ以降の方角や里程をそれぞれの説に都合が良いように「書き間違えている」としてしまうのです。まぁ、3世紀に書かれた本ですから、何ともいえませんが歴代の中国の「正史」というのは実に正確に書かれていることが多いという定評はあります。
また、畿内・九州どちらにも3世紀には国らしきものは成立していますし、博多湾の志賀島からは金印が江戸時代に発見されています。

そもそも、木村教授がこの問題に取り組むことになったのは、中国の学者と共同研究をしていたときに「邪馬台国は沖縄にあったのでは?」と質問されたことに始まるようです。
先の「東夷伝」の「倭人の条」を中国人が先入観なしに読んで里程を探っていくと沖縄に行き着いてしまう。
また、書かれている内容も「男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている」とか「男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪」とか「着物は幅広い布を結び合わせているだけである」とか「兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い(和弓?)」とか沖縄の風俗に対応していたり、沖縄説に決定的なのは「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている」という「畿内説」「九州説」ではありえない気候・風土として記されているのです。
また、海底遺跡の規模は今まで日本国内で見つかった遺跡よりも大規模で「倭人伝」に書かれたのと、ほぼ同じ遺構を持つもの。炭素14による年代測定では、2200年前から作り始められたものらしい。それが地震や地殻変動により沈んでしまったもののようです。
沈み始めたから、島伝いに北東に新たな安住の地を求めて進攻して行ったと考えると「神武東征」という「神話」として残ったのかもしれません。

現在のところ、この説は学界ではまったく無視されているようです。
そもそも、「東夷伝」の「倭人の条」を読んだ江戸時代に沖縄は薩摩の属国でしたし、明治の薩長政権にとっても沖縄が「邪馬台国」だとすると「万世一系」のはずの天皇の権威の問題にまで発展しかねないこともあったのでしょう。
つい最近まで、沖縄には縄文文化しかなく弥生文化の痕跡が見られないとされてきたのも、なぜか沖縄を後進地域としてしまいたがっているように思えます。
6月に書いた関野吉晴氏の航海でも分かるように、古代から南との交流が盛んだった沖縄の地には、中国からの新しい文化の影響も一衣帯水の近さですから強かったことでしょう。
室町時代に、中国の冊封国が一同に会したときには琉球の方が日本(室町幕府)より序列が高かったことを考えると、現在の常識を物差しにすると見えなくなるものが多々あるのかもしれません。
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by dairoku126 | 2011-07-07 17:54 | | Comments(0)


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